交通事故相談のことなら弁護士の村上英樹にお任せください。スポーツ事故、学校内での事故なども取り扱っています。

プロフィール

  • HOME »
  • プロフィール

村上 英樹 / HIDEKI MURAKAMI


私は、平成12年に弁護士に登録したときから、20年間にわたって交通事故案件に取り組んできました。

私が生まれてすぐのときに,祖母が家の前の国道で自動車に轢かれて亡くなりました。
私にはその記憶がありませんが,当時,中学校の教師だった母はそのために学校を退職し専業主婦になったそうです。
祖母の話を母からきくにつけ,祖母に会いたかった,交通事故さえなければ,と子供心に思ったものです。

昭和50年頃のはなしですから,交通事故で身内を亡くしても裁判をする人は少なかったそうですが,私の母と祖父は弁護士に依頼して裁判を起こしたそうです。
弁護士になって自分が交通事故案件に取り組むとは子どもの時には想像しませんでしたが,そのようになりました。

交通事故については,「弁護士をつければ賠償額が上がる」「弁護士によって賠償額に差が出る」と色んなホームページで謳われています。
どちらも確かに正解です。ただ,私は,本来ならばそうあるべきではないと思っています。
弁護士をつけてもつけなくても,どの弁護士に頼んでも,適正な被害弁償がなされるべきだし,もっと言えば交通事故が早くゼロになるべきだと思っています。

しかし,その「理想」に至る道のりの中で,やはり交通事故被害に苦しむ方がいるのは事実であって,また,事件を受ける弁護士の力量や努力によって結果に差が出ることも紛れもない現実です。

私は,自分が幼少のころから培ってきた「思考力」「分析力」「判断力」,また,「人をわかる」力,「伝える力」,これらの力を,一人一人の交通事故に遭われた方々のために活かして,少しでも良い生活を取り戻して頂くことに役立ちたいと思っています。

あらゆる意味で「安心して依頼できる」であるよう日々努めています。
皆様のお役に立てるように日々勉強し続けてゆきますので、どうぞよろしくお願いします。

略歴

昭和50年 兵庫県篠山市生まれ
平成6年 私立灘高校卒業
平成9年 司法試験合格
平成10年 京都大学法学部卒業
平成12 弁護士登録(岸本・西山法律事務所) 24歳で弁護士の仕事を始めた。
事務所では,兵庫県から依頼を受けた仕事が多く,マスコミに注目される訴訟事件にも関与した。
駆け出しの弁護士として,国選弁護,市役所の法律相談,先輩弁護士と弁護団を組んでの活動など精力的に働いた。
平成14 医療過誤裁判での勝訴判決 神戸地裁 平成14年6月21日判決。
初めて担当した医療過誤事件で,勝訴判決を得た。
のちに,判例データベースや,医学文献に紹介される判決である。
平成16 甲南大学法科大学院
講師(自主ゼミ)
司法改革により,日本に,ロースクール(法科大学院)ができた。
甲南大学法科大学院の開設から5年間,ロースクール生の学習サポートに従事した。
平成17 神戸シーサイド法律事務所
パートナー弁護士就任
5年間勤務した事務所で,共同経営(パートナー)弁護士になった。
給料をもらう側から,事務所を経営する立場(自営業者)になった。
背負うものが大きくなったが,自分の活動を自由に組み立てられる立場になり,より自分らしい仕事に邁進していく覚悟であった。
平成18 「弁護士村上英樹のブログ」開始 まだ弁護士が外向けに情報発信をする文化がなかった時代だったが,「伝える」ことこそがこれからの弁護士に必要なことだと思い,ブログを開始した。
以後,弁護士の仕事や裁判の紹介のほか,時事ネタ,音楽,スポーツ,読書の話などの日々雑感を書き続けている。
平成18 先物取引被害訴訟で完全勝訴判決 神戸地裁平成18年5月12日判決。
高齢者に対して先物取引業者が違法な勧誘をして約3000万円の損害を出させた事案。
完全勝訴の判決を得て,全額を返還させることに成功した。
平成19 大手前大学 講師(憲法) 法学部ではない学生さんに憲法を教えるということで,「伝える力」を磨く経験をした。
平成19 交通事故(高次脳機能障害)の判決 大阪高裁平成19年4月26日判決。
依頼を受けて7年間かかった裁判。
交通事故後の「見えにくい」後遺症を裁判で訴え,被害内容を実態に近いところまで認めてもらえた判決。
TBS系ドキュメンタリー番組「VOICE」でも取り上げられました。
平成23 日本公認会計士協会 兵庫会
研修講師(相続法,物権法)
公認会計士の皆様向けの研修を担当。2年間,それぞれ5回の講座で,民法を解説させていただいた。専門家向け研修なので,準備が大変だったが,自分自身の「学び直し」の貴重な機会となった。
平成23 交通事故(高次脳機能障害)の判決 神戸地裁尼崎支部平成23年5月13日判決。
交通事故後に脳の障害があることが分かり,日常生活の苦労などを訴えて得た判決。
平成24 神戸学院大学
客員教授(法と裁判)
2年間,法律と裁判に関する幅広い話をする講座を担当した。
初めての法学部生向けの講義だった。
毎回,学生さんからレポートを提出してもらい,双方向型の講義を行い,私自身も刺激を受けた。
平成24 大型の民事再生案件を担当 負債総額130億円超の会社の民事再生案件を担当。
DES(債務の株式化)という新しい手法を用いた民事再生手続を行った。
平成25 経営革新等支援機関
(経産大臣認定)
中小企業の経営支援,再生などにさらに尽力するために認定を受けた。
私自身30歳代後半になり,企業主の方と知り合う機会,相談を受ける機会が増えてきた。
平成26 兵庫県弁護士会副会長

日常の弁護士業務だけでなく,弁護士会役員として弁護士会全体のマネジメントに従事した。
弁護士業界の外の世界との繋がり,社会全体の中での弁護士の役割について強く意識する1年であった。

平成27 神戸シルバー法律研究会
代表幹事(現在まで)
神戸先物証券被害研究会
代表幹事(現在まで)
弁護士会役員の任期満了となり,日常の弁護士業務に戻った。
依頼事件に尽力しつつ,これまで関心を持ち取り組んできた「成年後見」「先物証券被害(投資被害)」の研究会の代表を務めることになった。
平成29 兵庫県弁護士会
交通事故問題プロジェクトチームで活動
(現在まで)
兵庫県弁護士会に交通事故問題プロジェクトチームができました。

初期メンバーとして私も参加し,交通事故判例の分析や,弁護士向けの研修会の企画などの活動をしています。

平成29年から現在まで,弁護士向け研修会の講師(パネリスト。被害者側弁護士)も務めています。
研修会のブログ記事

平成29 神戸モーニングロータリークラブ入会 企業経営と社会奉仕とを高度に両立しているたくさんの実業家の方と触れ合う場が出来た。
平成30 三木市情報公開審査会・
個人情報保護審査会委員
公の立場で携わる仕事が徐々に増えてきた。
個々人の利益の守り手としての活動とは違い,「みんな」の幸せを実現するという観点での仕事になる。
このような仕事を通じて,大学教授の方々など各方面の有識者の方々とも知り合う機会が増えてきた。
令和元年 ラジオ大阪『村上英樹の法律相談所』 法律をより身近なものに感じてもらえるようラジオ番組を持つことになった。
方面問わず多くの方から反響を頂いた。
令和2年 神戸シティ法律事務所に移籍 パートナー弁護士 弁護士21年目を迎えるにあたり,業務範囲の拡大,専門性の向上のために事務所移籍を決意した。
神戸シーサイド法律事務所での20年間で得た貴重な経験を,新天地で活かし,愛する街・神戸の人々の活力をより強力に支えていきたい。
令和4年 神戸むらかみ法律事務所を設立

来歴

1. 出生~小学生

篠山市(当時は,多紀郡丹南町)で生まれ育ちました。

丹南町立古市小学校に通いました。
篠山はとても田舎でしたが,家からは国鉄福知山線の線路が見えました。そこを1時間に2本くらい走る列車を見て,その先に世界が広がっている,と漠然と想像するのが好きでした。

野球(阪神ファン)が大好きなのに,土曜日の午後にピアノを先に習ってしまったせいで,少年野球に入れないという不運な(?)子どもでした。

勉強は,学校以外に,「わたしたちのさんすう」という算数のテキストを1日1ページのペースで1学年分先取りする勉強をしていました。高校教師だった父の指示ですが,実際にはそれもよくさぼって,酷く怒られていました(テレビの線をペンチで切られてしまったりしました)。

当時は,学習塾も公文くらいしかなかったので,私くらいの勉強内容(1日30分もしない)でも「すごい」「英才教育だ」と言われていました。

阪神タイガースが大好きでスポーツ欄を熟読するため小学校2年くらいから毎朝新聞を読むようになり,それがきっかけで,だんだん,新聞の全ページを熟読するのが毎朝の日常になりました。

授業中はじっとしていられない子でしたが,テストのときなど課題に向き合うときは集中しやすく,勉強は得意でした。

小学校6年生の夏に,父親が「中学受験で灘中を受けてみたら」というので,塾にも行かず,模試も受けたことない状態で,自分なりに勉強して灘中受験。
→ 「私の灘中受験記
受験直前は,過去問では合格点スレスレが取れたのに,本番では算数のテストで焦ってしまい大失敗。
見事に不合格でした。

小学校6年生のときに,親が,三田市への引っ越しを決めます。私の中学校入学に合わせて,三田市(ウッディタウン)に引っ越すことになりました。

2. 中学生

三田市立けやき台中学校(新設校。サッカー日本代表岡崎慎司選手の出身校)の2期生になります。
ニュータウンの新設校だったせいで,制服もありません。クラスは最初20人だったのですが,毎月転校生が来ました。

中学受験失敗が悔しかったので,高校受験で灘に合格したいと思っていました。
ただ,どちらにせよ受験は3年先なので,1,2年は部活などもしたいと思っていました。

卓球同好会に入り,後に部になり2年生のときに主将になりますが,部全体の活動が低調で事実上廃部状態になります。

勉強は,最初は自分なりに灘高めざして色んなテキストをやってみたりしていたのですが,中2の冬あたりに,「こんどは必ず灘高に合格したい」と思ったので,親に泣いて直訴して西宮北口の浜学園に通うことになりました。

浜学園には1年間通いました。この1年だけは,食事,お風呂,寝る以外で勉強に使える時間はすべて勉強に使いました。そんな中,生徒会長に選ばれますが,「生徒会」で休む以外には全く塾も休みませんでした。

英語は,大学受験用の英単語,熟語,例文700を完璧に覚えました。
数学は入試本番で,どんなにパニックになっても合格点が取れるように,と思って勉強しました。

私にとって,灘高受験は,神戸に出て,阪急沿線で華やかな高校生活を送るために絶対に合格しなければならないと思っていました。

結果,灘高に合格。入試の成績は1番で,高校から入学クラスの「級長」になります。私は順位など全くどうでも良く,とにかく最下位でもいいから絶対合格したいとしか考えていませんでしたから「びっくり」でしたが,「何ごとも集中力と情熱があればできる」という自信になりました。

ともかく,憧れの街,神戸での高校生活が送れる,というその「切符」を手にしたことがうれしくて仕方ありませんでした。

3. 高校時代 ~「高校球児。からのバンド,バイト…」~

灘高はとにかく自由そのものの学校でした。

高校時代は,最初野球部に入ります。
余りに下手でしたが,小柄ながら大きな声を出して張り切る私を監督も先輩もとても可愛がってくれましたので最初は高校球児ライフが楽しかったのです。

ただ,いくらなんでも余りに下手すぎて,1年の秋になって新チームになっても一向に芽が出ず,怪我をしたりして自分でも悩み,また,そのときロックバンドがしたいと思い退部。

その後は,バイトをしたり,バンドをしたりしていました。
バンドは,邦楽ではボウイ,Bz,ブルーハーツ。洋楽では,ボンジョヴィなどです。元々ピアノをやっていたので,バンドでもキーボードをやりました。
バンド活動のためお金も稼ぎたかったですが,とにかく,高校生のときから社会との接点が欲しく,また年上の大学生,大人と接したくて,バイトをしました。

最初,毎日学校帰りに夜11時までお寿司屋さんで働こうとしましたが,それは親に止められました。
実際にやったのは,深江浜にあった新神戸大プール,正月前の六甲アイランドの餅工場,駅前での英会話学校でのチラシ配り…
学校では学べない,色んな勉強をしました。

進路選択は,私は文系にしました。
天邪鬼だった私は,成績優秀者がみな医学部に行くということには疑問を持っていました。

私の知っているよくできる人が医者になるのは確かに頼もしいことだと思いました(確かに,東大理Ⅲや京大医学部に合格する実力をつけることは並大抵ではなく,それをやり遂げた仲間たちの能力と努力を心から尊敬しています)。

が,当時は,周りが医者を目指すなら,俺は別のものを,と考えました。ひねくれているといえばそうだし,良く言えば,医者になる仲間と違うことをやって世の中の役割分担をしたいという発想です。

それで,私は,京大の法学部。
周りからは「なぜ理系でなくて文系?」「なぜ東大に行かないのか?」と言われましたが,私は「原子や分子の間より,人の間で生きたい」と言い,「自由の学府である京大がいい」と,そのとき思いついた大義名分を唱えていました。

実際に「人の間で生きる」ことがどれだけ「修行」の要ることかが分かるのは大人になってからです。

今思えば,野球部,バンド,バイト,生徒会副会長,他校生との交流など,フルコース。とても充実したキラキラした青春時代にきこえます。
ただ,当時は多感な高校生だったので,私としては,常に「自分探し」をしている感じでした。

勉強は,中3時の猛勉強によって,知識だけでなく,勉強するときの「感覚」が研ぎ澄まされていたので,試験の時に集中することが楽にでき,高校受験の時に比べればごく自然な生活の中で,京大法学部に合格します。

4. 大学時代 ~「浜学園講師。からの,司法試験」~

とにかく,バイトに精を出しました。
勉強はいくら高得点をたたき出してもお金はもらえませんが,バイトは働いたら働いた分だけお金がもらえる。それがたとえ,後から見れば安いレートだったとしても,うれしいことでした。

初期は,色々バイトをしました。
自分がお世話になった浜学園がメインですが,それだけではなく,100円ショップ,京都の小さい塾,遊園地でのヒーローショー(ゴレンジャーみたいなもの)など。

結局,給料の良い浜学園一本になります。
大学1年のときなどは最初週4だったのが,すぐに週5,6,7になりました。

夏休みは,朝から晩まで毎日働きました。
当時は「浜学園で大学生が1年働けば車が買える」と言われていました。
普通のサラリーマンの初任給など比べものにならないような給料がもらえましたし,働けば働くほど成果が上がるので,すごくやりがいを感じたのを覚えています。

浜学園では,大半が小学生相手の授業なので,とにかくパワーが要ります。大きな声でハキハキしゃべることは当たり前。授業が「分かりやすい」だけでは一流になれない。「面白いうえに,成績が上がる」授業が出来てやっと一流の仲間入り。
もちろん,子どもとエネルギーのぶつかり合いで負けてはだめで,まさに「戦場」のような塾でした。

ここで働いた経験は弁護士になった今も活きていると思います。
大学の授業よりも,バイトでお金を稼ぐこと,そのお金で社会の色んなところを見て回ることが,自分にとって必要な「勉強」だと思っていました。

大人(年上の人たち)と付き合いをすることも大好きでした。
夜の酒場,サウナ…色んなところで,色んな境遇の人と出会い,話をする。自分の経験したことのないような,また経験しなさそうな話ほど,新鮮で「タメになる」と感じました。

しかし,そうする中で,結局はただのアルバイト大学生のままではダメで,自分の持っている能力をもっと発揮できる「広い」場所へ行かなければならないと気づきます。

そこで,2回生の冬くらいから司法試験の勉強を始めます。
当時は,合格率2,3%くらいの難関と言われていましたが,私は自分の情熱の強さに自信があったので道の選択に迷いはありませんでした。
勉強を始めてから半年後の3回生時に1回目を受け,第1関門の短答式試験には合格しますが,天王山の論述試験で不合格。スケジュール的に無理があったかもしれませんが,それでも不合格は悔しいものでした。

→「私の司法試験1回目受験記

絶対落ちたくない気持ちで受けた4回生時に最終合格しました。
勉強を始めてから最終合格まで1年10ヶ月ほど。この間は,中3のとき(灘高校受験)ほどではありませんが,かなり集中して勉強しました。

しかし,大学の授業にはほとんど行ったことがなかったので,4回生のときは単位が足りず卒業が危ぶまれました。後期試験に怒濤の追い込みで大量の単位を取ってようやく卒業しました。

5. 司法修習時代

当時の修習生の中で一番若かった私は,とても張り切って,司法修習に臨みました。
張り切りすぎて「滑って転ぶ」こともしょっちゅうありましたが,同期でも,年上の方々が度量広く,とても可愛がって下さいました。
このときも,司法修習の中身である法律実務はきちんと出来るようになること,これは当然ですが,私は「それ以外の勉強」を大切にしました。

1冊法律の本を読んだら,違う分野の本を1冊読む。
夜になったら,土日になったら,法律家(弁護士,司法修習生)ばっかりとつるまずに,できるだけ,それ以外の人と飲みに行く機会を多くする。
これを実践しました。やはり,毎日活動していました。

弁護士になるときで,私は24歳と若く,そういう年齢の人は裁判官になるか,東京の大事務所に就職する人が多かったのですが,私は,地元神戸が好きで,また,「感謝してくれる人の顔が直接見える仕事がしたい」と思い,弁護士の先生から直接「来て欲しい」と最初に声を掛けてもらえた今の事務所(当時「岸本西山法律事務所」,現「神戸シーサイド法律事務所」)に就職しました。

6. 弁護士になってから

20代のころ,勤務弁護士時代は,とにかく,1件でも多く事件がやりたかったです。
刑事の国選事件もたくさん引き受けましたし,知り合いの先輩弁護士が「手伝ってくれる弁護士」を探していたら「すかさず手をあげる」…
弁護士の仕事は本で勉強するだけでは知識にはなっても身についた感覚が薄く,やっぱり,自分で仕事をしてこそ身につきます。
入った事務所が本当に良い事務所で,一般的な民事事件のほか,行政事件,家事事件,交通事故…色んな経験が出来ました。
夜も土日も活動していないと気が済まなかった私は,弁護士業務のほか,各種勉強会,野球,テニス,ゴルフ,様々な懇親会など,ずっと何かをしていました。

30歳を前に「パートナー」になります。
事務所の共同経営の立場です。簡単に言えば,給料をもらう側から,給料を払う側になります。
このころ,よく取り組むようになったのが「先物取引被害」訴訟でした。
高齢者などが儲け話に乗せられて危険な取引をさせられ多額の損失を出す,という消費者被害です。
こういう事件をたくさんやりました。

自然に感じる「正義感」をそのままに事件に立ち向かえるところが良いところで,お陰で,良い結果を出し,被害を救済でき,感謝してもらえたということがたくさんありました。

その他の事件でも,交通事故案件,特に高次脳機能障害(事故で頭を打った後の後遺症)の案件など,事故に遭ってから裁判で決着がつくまで何年もかけてやっと解決できた,など貴重な経験をしたのがこの時期でした。

30代のときは,弁護士の社会に対する役割,をより強く意識するようになりました。
「司法制度改革」と言われ,平成14年ころから司法試験合格者を急激に増加させるという政策のもと,弁護士の数が増えていきます。
弁護士が激増すると競争が激しくなり,「ビジネス」「営業」の必要性が言われるようになります。

私は,世の中を,人を「善い方に導く」弁護士の役割と,「ビジネス」「営業」とが両立するのか?そうは言っても,自分も事務所を経営しなければならない中,どういうスタンスで活動すべきか,を日々考えました。

40歳を前にして,兵庫県弁護士会副会長に就任します。
事務所も私生活も時間がいくらあっても足りない時期で,副会長就任は気が重い部分もありましたが,色んな場所で色んな弁護士が日々活動していて,世の中を少しでも「人に優しい」ものにしようと日夜努力していることを知ったり,自分一人では到底出来ないことが人々の協同作業で出来ていることを知ったり,視野が広がりました。

それまでは,私は,他人を頼らず,己の力のみで仕事をしようとする,「個人技」的傾向が強かったのですが,「それだけではできないことがある」「他人と協同する力はすごい」と,「他者とともに歩む」心が育ってきたように思います。

それで,副会長の任期が終わってから,弁護士会の活動はもちろん,その他,異業種の方と一緒に活動すること,奉仕活動などに参加することが,以前より楽しく感じられるようになりました。

気づけば弁護士になって20年が過ぎました。

取り扱う事件としては,相続・交通事故・不動産関係などの一般民事・家事事件,地元企業の顧問・相談・支援,成年後見などの高齢者問題,投資被害,医療過誤など,経験もかなり蓄積されてきました。

弁護士の仕事は,「取扱い分野」が違っても,根っこの部分,法律的に筋道立ててものを考えること,その上で実際の「人」にとって最善の解決を考える,という部分は同じです。

どの仕事もそうですが,弁護士は特に一生新しいことを学び続ける必要があります。 これからも,新しい分野にどんどん取り組み,自分の力を発揮する場を広げていこうと思っています。

PAGETOP
Copyright © 弁護士村上英樹 交通事故法律相談 All Rights Reserved.